【その6】

船乗りは歌を作り、歌を広めた


 海にまつわるFolk Songも数多い。”Water Is Wide”のような海を隔てた恋心を歌ったもの、”Sloop John B”などの、実際に起きた船の沈没事件を歌ったもの、”Bonny Ship The Diamond”などの捕鯨船にまつわる歌など様々である。
最 も多いのは、”Sea shanty”、あるいは”Sea chanty”と呼ばれる船乗りたちの労働歌である。帆を巻き上げたり、錨を下ろしたりする作業のときに、呼吸を合わせるために歌われたもので、日本でい えば「ヨイトマケ」のようなものだ。一人が勝手なフレーズを歌い、続けてみんなで「エ~ンヤコーラ!」のようにコーラスをする形式の歌だ。

 そ のような曲の中で、僕たちフォークソングファンのアイドルであるKingston Trioが歌っているのが”Santy Anno”だ。様々な歌詞で、いろいろな人に歌われているが、この曲のメロディーは、1850年代の後半に生まれたもののようだ。YouTubeでも聴く ことができる。↓

https://www.youtube.com/watch?v=wuwBGX-FUEE

 冒頭部分の歌詞は以下の通り。

We're sailin' 'cross the river from Liverpool,
Heave away, Santy Anno.
Around Cape Horn to Frisco Bay,
Way out in Californio.

Kingston Trioの先輩にあたるThe Weaversバージョンの歌詞は、1行目が次のようになっている。

From Boston town we’re bound away
(以下同じ)

 両方の歌詞から読み取れるのは、歌詞が書かれた当時の船の航路である。イギリスのリバプールからニューヨークなどのアメリカ東海岸への航路はすでに移民 船のルートとして多くの人や物資を運んでいたが、アメリカの東海岸から西海岸へのルート開発は容易なものではなかった。陸上交通は、馬や幌馬車、川や運河 を乗り継ぐ約5500キロの旅であり、これが1869年の大陸横断鉄道の完成まで続いた。

 この歌に歌われているのが、東西を結ぶ海のルートである。つまり、南米大陸の南端、ホーン岬を回る航路だ。ホーン岬周辺は荒天が多く、難所とされていた ドレーク海峡を通るという大回りのもの。

 歌われている目的地は、”Frisco Bay”となっているが、ネット検索で現れるのがコロラド州の観光地である。ところが、コロラド州の州都・デンバーは”Mile-high City”と呼ばれる標高1600メートルの高地。これは明らかに違う。地図で見るとディロン湖の中の湾であった。

 本当のFrisco Bayのヒントはオーティス・レディングが歌う”The Doc Of The Bay”にあった。

I left my home in Georgia
Headed for the Frisco Bay
'Cause I had nothin' to livefor
It look like nothin's gonna come my way

♫故郷のジョージアを後にして、フリスコ湾に向かう。
生きる目的も持っていなかったから、これから先も何もないと思う……。

 大ヒットした曲で、僕も好きな歌の一つだが、この解説を読むとフリスコ湾=サンフランシスコ湾とあった。これで納得。そういえば、”San Francisco Bay Blues”というフォークソングの名曲もすぐに思い出した。

 東海岸から西海岸への航路と同様に、話しもずいぶん大回りしたが、最後の行にある”Californio”はスペルミスではなく、「キャーリーフォール ニォー」とKingston Trioは歌っている。アイルランドのフォークソング・グループであるThe Clancy Brothersは「キャールフォーナイオー」と発音している。Sea Shantyでは、このように言葉の終わりに「O(オー)」をつけるものが多いが。これは船乗り特有の、あるいはアイルランドの訛りなのだろうか?

 1849年には、カリフォルニアで金鉱が発見されゴールドラッシュが起こり、多くの人が一攫千金を夢見て、様々なルートで西へ、西へと向かった。” Santy Anno”の歌詞の中にも「Back in the days of forty-nine」と、ゴールドラッシュを暗示するフレーズが入っている。

 1955年に、西へ向かう人々を運ぶため、南北アメリカ大陸で最も幅 の狭いパナマ地峡にパナマ鉄道が開設された。船→列車→船と乗り継いで金鉱探しに向かったのであろう。

 1880年、この地に運河を建設しようと乗り出したのが、スエズ運河を建設したレセップスをリーダーとするフランスであった。しかし、黄熱病の流行や資 金難などから挫折、この事業はアメリカに引き継がれた。アメリカにとって東西を結ぶ航路開発は、経済的・軍事的に重要な意味をもつものとして取り組み、 1903年から10年9ヵ月をかけて1914年に開設した。これにより、危険なホーン岬回りの航路は不要なものとなった。

 曲名となっている”Santy Anno”とは、メキシコの将軍や大統領を務めたアントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ(1794~1876、左図上)、あるいは彼の名前を冠した船のこ とである。彼は軍人としては英雄として評価されているが、政治家としては毀誉褒貶が激しい人物のようだ。

 ところが、僕は高校時代に彼の名前を聞いたことがあったのを思い出した。
ジョン・ ウェインが、実在の英雄デイビー・クロケット大佐を演じた映画「アラモ」。1836年、メキシコに対する独立戦争で実際に起きた、アラモで伝習所(アラモ 砦)を巡る攻防戦を描いたものだ。メキシコ軍は、アラモに立てこもったテキサス共和国守備隊を攻撃し、デイビー・クロケット、デビット・ボウイ(両刃のボ ウイナイフの考案者)などの著名人を含む180名を全滅させた敵役のメキシコの将軍がサンタ・アナであった。

 彼が登場する場面では、デミトリー・ティオムキン作曲の「皆殺しの歌」のメロディーがトランペットのもの悲しい響きで演奏されたことが印象的であった。

 この映画のエンディングテーマ曲として採用されたのが、Brothers Fourが歌った”Green Leaves Of Summer”
(邦題「遙かなるアラモ」)。伝令として砦の外に出され、ただ一人生き残ったフランキー・アバロンが演じた若き兵士が、全滅 した砦を丘の上から眺めるシーンに切々と重なる美しいメロディーの曲だ。

 因みに、この映画のテーマ曲候補としてKingston Trioの”Remember The Alamo”もあげられていたというが、定かではない。こちらでは、アラモの戦いの模様が、事細かに綴られている。この歌はKingston Trioが大ヒットさせ、世に知られるきっかけとなった”Tom Dooley”の少し後にリリースされたもので、映画で取り上げられていたら、日本でさらに人気が出ていたかもしれない。

                   ★

いや~あ、フォークソングって、本当におもしろいですねぇ!……(⑦へ続く)